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Keigo Nakatani Startup story

SS事業部 中谷圭吾

ラコステで変わった僕の人生は、

たったひとつの成功もない

中谷圭吾。31歳。彼が自分のビジネスをスタートさせたのは23歳。Yシャツの仕立て屋だった。

大学時代から洋服が好きではあったが、群を抜いてダサかった。友人の全てが例に漏れず「センスがない」と語るほど。

そんな折、仕立て屋のきっかけとなるポロシャツと出会う。友人に紹介されたラコステのポロシャツだ。当時18,000円。私もそうだったが、貧乏学生にとってポロシャツ1枚に18,000円を使うには清水の舞台よりも高い舞台から飛び込む勇気が必要だ。しかし、その勇気の先で得たものが18,000円とは安い。

デザイン、着心地、縫製、全てが違った。普段着ている3,000円のポロシャツとではまるで違う。たかがポロシャツでこんなにも感動するものなのか、この感動を俺も提供する人間になりたい。その一心が中谷を仕立て屋へと突き動かし、大学卒業後は服飾系の専門学校へと進学した。

彼は最初から事業家だったかと問われるとそうではないだろう。大学卒業後、私と同じように就活しているし、某大手百貨店に就職している。ひとつ違うところがあるとすれば、彼は組織内で働くことに、極端に向いていないという点。

 就活で当時は当たり前のように行われた圧迫面接。そこで中谷はキレた。「あんたとは一緒に働けないとキッパリといいました」。面接官にはその場で履歴書を破られたそうだ。大手百貨店では技術者として頭角を現し、入社2ヶ月で、系列店舗の店長へと栄転命令。技術者を離れてしまった後悔で退社。普通なら給与も上がる上、それ以上に名誉がある。なんとしてもしがみつくところだが、あっさりとその立場を捨ててしまう。「給料もらうだけじゃやってられない」完全にアウトローである。

 大手百貨店を退職後、俺には組織は向いていないのかもと個人事業主としてYシャツの仕立て屋をスタートさせる。店舗はなく、自室にミシン1台と大量の生地を持ち込んでのスタート。その営業方法がまたアウトロー。仕立て屋の収益だけでは食べていけない時代、日本橋のカフェでアルバイトをしていた彼はカフェの客に、手書きの名刺を配り歩いた。「すみません、Yシャツを作らせてもらえませんか」営業なんて知らなかった時代、掛ける言葉はこれしか知らなかった。時代が時代ならこのカフェ、大炎上は免れない。

それでも少しづつ客がつき、儲からずとも仕事は増えた。少しずつでも金を貯め、投資した先はミシンでも生地でも素材でもなく、イタリア旅行。服飾の本場にいきたい! ただそれだけ。Yシャツ作りに本気だったから、本場にいけるだけで十分だった。

そのシンプルな本気に神は1つの出会いをプレゼントした。フランスで活躍している鈴木健次郎氏だ。出会いもまたアウトロー、常識や奇跡なんかじゃない。雑誌で鈴木氏の記事を読んだ中谷はFacebookで同姓同名を検索し、本人のアカウントを特定する。その後は返信があるまでメッセージを送るという…。完全に事案である。決して真似はしてはいけない。まさに神のプレゼントとしかいいようがない、鈴木氏は中谷の「俺の作品を見てほしい」という無茶を快く承諾し、帰国時の大切な時間を中谷に使ってくれた。

 中谷は彼から多くの学びを享受したが、その全てが彼にとっての衝撃だったが、「海外で学んだほうが早いよ」これ以上の学びはなかった。しかし、今度はさすがのアウトローも行動を取れなかった。これまでの事業で作った借金を抱えながらの海外就労に、さすがに臆してしまった。鈴木氏はさらに伝える。「じゃあ3年で借金を返して海外生活の金を貯めろ、その間服飾は禁止。3年後準備ができてそれでも海外で服飾を学びたいと思えたら本物だ」。

 中谷は愚直にそれを守った。その仕事探しの中で出会ったのが通信業界である。

当時、通信業界はiPhoneの爆発的ヒットで空前の長期好景気ビジネスだった。その中でもSoftbankは風雲児として業界を牽引していた。「儲かってそうだから金が貯まるイメージができた」そんな理由でSoftbankの選考を受ける。相手は日本にiPhoneを持ち込み業界をいい意味で壊したアウトロー、中谷とは相性がよかった。「俺にはやることがある、3年で借金を返して金を貯めて海外にいく、3年しか働けないが日本一になることを約束するから採用してくれ」。当時のSoftbankの部門長は即採用を出したそうだ。この程度のアウトローには動じない、Softbankスゴい。

 当然、中谷は日本1位の販売成績を収める。イチセールスパーソンとしての成果は言うに及ばず、店舗運営という経営領域の仕事がメインである中の成果。この仕事が楽しく感じないはずがない。ここにきてやっと「経営」と出会った。これは多くのアントレプレナーにいえることだが、この手の人間は「そう思うことはそう」なのだ。これは誰にでも真似ができる。ただ、「そう思う」ことを苦手な日本人は多い。

話を戻すと、日本1位になった中谷は、きっかり3年でSoftbankを躊躇なく退社。中谷は27歳になっていた。専門学校卒業時が23歳。Softbank時代が3年間あるので、前述のエピソードはほとんど1年間でのできごとだ。いざ、イタリアへいこうとした中谷へ次の事件が起こる。ビザが下りない。

イタリアにはワーキングホリデーがない。働こうと思ったら就労ビザが必要だ。それが下りない。海外就労のエージェントは「イタリアは無理だからカナダはどうだ」と進めてきた。中谷の友人谷口(現アドバンサーSO事業部長)は勧める「圭吾ならどこいっても同じように成長するのはわかってる、圭吾は圭吾だから国なんて関係ない、いけるところにいけばいい」。カナダ就労が決まった瞬間だ。

カナダでのエピソードは筆舌に尽くしがたい。コンプライアンス的に。なので事案名だけ。

・スリ被害
・強盗被害
・強盗からジャケット強盗事件
・5ヶ月給料未払い労働
・SIR資格替え玉事件

 事業部長クラスの記事を書くとほぼ必ずと言っていいほどある、海外就労経験。そこでは大きな学びがあって、今のビジネスやビジネスパーソンとしての特筆すべき事項が沢山詰まっているのが常だが、出てくるエピソードは事件オンリー。

 中谷はカナダで何を学んだのか、「諦めない、負けない、挫けない、頑張れば稼げる、あ、あと命があればなんとかなる」と語るが、私は彼のエピソードの中の彼と今の中谷と見比べることでもうひとつ見つけた。いや元々持っていたのかもしれない。「失敗は存在しないこと」を中谷は体現している。

今、中谷は

1.自社システムの販売・運用
2.キャリアショップ運営
3.システムエンジニアリング
4.システム開発

と、4つの事業を展開し、システムソリューション(SS)事業部を今期の急成長を実現した。

その礎は何かを語ると行動力とか、意志力とかそんな日本語しか出てこない。私が書き得る全ての言葉をチープにする何かが中谷にはある。それはなんだろうか。

 彼が通してきた無茶は、一見彼の行動力に見えるがその本質は違う。彼のシンプルな本気が当時の大人たちを動かした。私はそう感じてやまない。ちなみに彼は専門学校の入学金を分割で払うという無茶を通している。カナダでは英語はそれほどにも関わらず、通訳兼秘書という仕事をしている。

 中谷は今SS事業部がおこなっているビジネスのほとんどを理解していないという。ではなぜ事業が進んでいるのか。答えはクライアント社長達が、自分のビジネスでサポートしていることにある。あのときの無茶と同じように、中谷のシンプルな本気に共感した企業の社長が今度は動いているのだ。

その礎とは、無茶ばかりだったあのときと同じようにシンプルな本気の想いだけなんだと思う。

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